裏の裏は、表…に出せない!
実話誌等で暴走する裏系&馬鹿系ライターが、日本最大の歓楽街・歌舞伎町から発信するグダグダな非日常的体験と裏話。そして禁断の取材メモ!
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夢 歌舞伎町 ~歌舞伎町を創った男~ 鈴木喜兵衛
5月17日から21日まで、実にユニークな演劇が公演される。
タイトルは『夢・歌舞伎町物語』である。

歌舞伎町を創った男・鈴木喜兵衛をモチーフにした作品である。

コマ劇前広場(正式にはシネシティ広場というのだが、歌舞伎町の住人たちは噴水があった時代から、ここをコマ劇前広場と呼ぶ)を野外劇場として使用し、実際の歌舞伎町のビルやネオンを舞台装置に使用するという大胆な試みの芝居である。
しかも、本物のパトカーや消防車まで登場するという。

出演者には「歌舞伎町案内人」の李小牧(彼が原作を担当している)や、ホスト業界の雄「愛田観光」の現役ホストなど実際の歌舞伎町の住人たちも出演する。

後援は歌舞伎町商店街振興組合、新宿区も名を連ねている。

歌舞伎町の住人たちと行政が手を取った街づくりのための大掛かりな仕掛けでもある。
その成功を大いに期待している!

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シアターアプルとコマ劇前広場を使った大胆な移動演劇!


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原作は李小牧、演出は東京ギンガ堂・品川能正 主演:大沢樹生、耿忠
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歌舞伎町の侠・特別編「歌舞伎町を創った男…鈴木喜兵衛」
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~鈴木喜兵衛氏~

終戦の日、焦土と化した新宿。
失意のうちに瓦礫の中に立った男は、
のちに、この街を「歌舞伎町」に変える。
その男の名は、鈴木喜兵衛…。
そして、喜兵衛と歌舞伎町に関わる様々な男たち

時は平成、歌舞伎町の再生に賭ける男たちがいる。
鈴木喜兵衛のDNAを受け継いだ男たちである。
“喜兵衛プロジェクト”…街は自分たちで創るを合言葉に、
彼らはその計画のひとつに男の名前を冠した。

歌舞伎町の路地を歩く。
やたらとT字路にぶつかる。
裏路地の四つ角も微妙に交差がずれている。
狭い路地に迫るような高いビルとネオン…。
映画のセットのように感じる見通せない路地や通り。
初めて訪れた人はそんな街の様子に胸が高鳴るはずだ。
戦後、計画的に区画されたのに、どうしてこのような街並みになっているのだろうか?
…実は、そういう心理効果を狙って、
この街並みを意図的に作り上げた男たちがいたのである。
その中心になった男が鈴木喜兵衛である。

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~歌舞伎町の地図~やたらとT字路が多いことが見て取れる。


歌舞伎町を創った男 ~鈴木喜兵衛という男~

歌舞伎町は何もない街だった。
ただあるのはうっそうとした草むらと池だけ…。
現在の歌舞伎町公園の一帯は大きな池であった。
池には二つの浮島があり弁天様が祭られていた。
歌舞伎町公園に現存する弁天様である。
池では鴨猟が盛んに行われていた。
鴨が営巣しやすい浮島のある池であったためである。
猟は池の持ち主の趣味、池の持ち主は大村伯爵。
かつては肥前大村藩の大名である。

角筈という歌舞伎町の旧名は有名だが、
その時代は十人町(近隣の百人町は現在も残る町名である)と呼ばれた。
池からの水が流れ込んだカニ川。
川の痕である現在の花道通りが微妙クネクネとしている理由でもある。
新宿文化センター付近で他の川と合流し付近の水田に利用された。
伯爵邸とはいえ武家が力を失った明治には単なる荒れ果てた土地。
池は遊女などの投げ込みの池でもあった。
その後、府立第五高女(現在のコマ劇場周辺)いう女学校が建てられ、土地は尾張銀行の頭取だった峯島氏のものとなる。
荒地は整備され池は埋められた。
新宿西口に建設された浄水場(現在の西口高層ビル群)の堀土が利用されたのである。
…こうして街は様相を変えた。

しかし、戦争で焼け野原になってしまった。
その場所に呆然として佇む男がいた。
……男の名は鈴木喜兵衛、歌舞伎町を創った男である。

喜兵衛は三重県一色村の富農の家に生まれた。
しかし、父の死で鈴木家は没落。
喜兵衛は丁稚奉公から始まり、多くの苦労を重ねてこの地にたどり着いた。
そして戦争。
疎開地から戻った喜兵衛が見たのは焦土となった街だったのである。

すぐさま喜兵衛は持ち前の企画力と統率力で復興に乗り出す。
彼は戦災者たちを説き伏せて民間主導の復興協力会を組織する。
区画整理をし、前述のような道路網を作り、街を銀座や浅草に負けない大衆娯楽の街とするために動き出す。
それは強引とも言える猛烈なエネルギーであった。
東京都都市計画局課長・石川英耀と組み、街のシンボルとなる歌舞伎劇場「菊座」の誘致に喜兵衛は乗り出した。
それにちなんで町名を歌舞伎町と改名した。

しかし、その計画は頓挫した。
連合軍総司令部(GHQ)の横槍による大規模施設建設禁止令などが原因であった。
喜兵衛は名誉挽回のために、昭和25年、新宿御苑が宮内庁から東京都に移管されたのをきっかけにした「東京文化産業博覧会」の会場として名乗りを上げた。
町民から莫大な資金を集め、私財をも投げうった。
新宿に設けられたいくつかの他会場と同様に、
歌舞伎町には多くの人が訪れた。
……しかし、

博覧会は大赤字を出してしまった。
当時の金額で6千8百万円。
町民の投資した額の17%しか戻らなかった。
町民に「チョッペさん」と親しまれていた喜兵衛は破産し、批判勢力に追い詰められ表舞台から消えた。

ところが、博覧会の跡地にはパビリオンとして使用された大型建物が残っていた。
飛行機の格納庫を重ねたのちのミラノ座など、それらは現在のコマ劇前広場周辺の興業街となる。
博覧会野外劇場跡地に歌舞伎町の新たなシンボルとなる新宿コマ劇場が誕生し、歌舞伎町は喜兵衛の思い描いた姿となった。

喜兵衛が焦土の歌舞伎町に立ち、街づくりの計画を立ててから10年余りの年月が流れていた。

それらの功績は、喜兵衛の後を継いだ住人たちのもので、喜兵衛のものではないかも知れない。
挫折を覚えた喜兵衛…その死は自殺とさえ言われている。
しかし、その計画を立てて歌舞伎町を夢見たのは、まぎれもなく鈴木喜兵衛であった。

歌舞伎町の正面玄関にある「とんかつ茶漬け」で有名な「すずや」割烹料亭「勇駒」は喜兵衛が残した有名店である。

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~現在の歌舞伎町を北方向から望む。手前が職安通り、最奥が靖国通りである。縦に貫くのが区役所通り。この小さな一角から様々なサブカルチャーや事件などが生まれてゆく~


さて、ここからは裏話だ。

~三人の華僑と侠たち~

鈴木喜兵衛が街づくりを目指し、それを支え続けた男たちがいた。
彼らは華僑と呼ばれる外国人たちであった。
歌舞伎町は外国人が作り上げた街と言われる所以である。
戦争が終わり強制送還や財産を不当に没収されることがなくなった彼らは、不動産を手にする。
それが歌舞伎町であった。
喜兵衛が当時の大地主であった尾張銀行頭取の峯島茂兵衛に歌舞伎町建設の支援者として土地を分譲することを承諾させた。
惜しまれつつも閉店した安国通り沿いの書店「尾張屋書店」はこの峯島家が興し、質屋を経営していた喜兵衛の支援者でもあった町田氏が引き継いだ。
こうして華僑たちはいち早くこの街の将来性に着目し、喜兵衛の街づくりプランを支えた。
その歌舞伎町の華僑社会の顔役に、林以文、李合珠、林再旺という三人の華僑たちがいた。
彼らが喜兵衛の残した博覧会パビリオンの主となってゆく。

林以文は台中県出身で、日本の中央大学を卒業し、人口甘味料の販売で財を成した。その後、歌舞伎町で初の映画館「地球座」を開業し、ホテル、レストラン、ゲームセンターなどレジャー関連事業から不動産まで幅広く展開する恵通グループ(現在のヒューマックス)の会長として、長年にわたり日本中華聯合総会の会長をも務め、のちに国会議員にまで登りつめる台湾華僑界の重鎮となった。

李合珠は、桃園県出身の客家で、林以文と同じく中央大学を卒業した。靖国通りにある高級中国料理店「東京大飯店」などのレストランをはじめ数々の事業を手がけた。ビルの壁面に色鮮やかなドラゴンのオブジェがある靖国通り沿いの有名ビルである。

林再旺は歌舞伎町のランドマーク「風林会館」の創設者。当時は珍しい総合レジャービルで、喫茶店からビリヤードや卓球場まで備えていた。
あの有名な喫茶店「パリジェンヌ」があるビルである。実は地下鉄都営大江戸線の歌舞伎町駅が、このビルの地下に出来る計画もあった。

その他、リービルの利騰山、半島出身の東亜興行…多くの外国人や外資企業家たちが喜兵衛に協力した。

彼らは持ち前のバランス感覚で地元のヤクザや日本人ともうまく付き合ってきた。

…事実、戦後から現在にかけて歌舞伎町はヤクザの街という一面も持つ。

新宿は武州小金井生まれの侠客・小金井小次郎の縄張りであった。名主の息子であった小次郎は幕末の名侠客・新門辰五郎の舎弟となり、時の権力者・徳川慶喜から源氏の二引き紋を与えられた。表紋が辰五郎、裏紋が小次郎。のちに小次郎の系譜を継ぐ小金井一家が所属した二率会(平成13年に解散)の名称の元となった歴史の裏である。

その小次郎の身内であった平松兼三郎という親分が小次郎の持つ広大な縄張りの新宿一帯を仕切った。新宿に最初の映画館「美松館」を建設し街づくりに貢献した親分でもあった。
平松の舎弟にはのちに熱海の縄張りを稲川会に譲る海老沢文太郎、銀座に進出して一家持ちとなる篠原縫殿助。平松の後に新宿を受けた市川三吉と田中松太郎、市川の実弟の丸吉と亀吉、甥の正芳はのちに綱島の顔役となった。小金井一家からもこうした多くの名侠客を新宿は生んだ。

稼業違いである的屋からも多くの名侠客が生まれた。
関東飯島一家の小倉米三郎、その二代目である尾津喜之助「光は新宿より」というスローガンで復興に尽力し、のちに衆議院議員選挙で二万三千票も集めた(次次点で落選)親分でもある。同じく飯島一家倉持分家の渡辺末男。新宿議会議員を務めることになる東京早野会分家の安田朝信。野原組の野原松次郎、和田組の和田薫、のちの神農界の最大組織・極東会の礎となる桜井一家の関口愛治などの有名親分を生んだ街でもある。

新宿は彼らの手によるヤミ市から商業の街として栄えた裏面もある。
新宿のヤミ市は尾津組、安田組、和田組など…。
その勢力争いを仲裁し縄張りを線引きしたのは実は当時の警察なのである。
その境界線にある横丁は「殺人横丁」と呼ばれるくらいに刃傷沙汰が絶えなかった。
万年東一、加納貢…に代表される戦後の愚連隊の台頭で歌舞伎町裏社会も戦国時代と化したこともあった。

こうした侠たちも歌舞伎町を作り上げるパズルの重要なピースとなった。

百花繚乱のアンダーグランドたちと華僑たちは上手く付き合った。
アンダーグランドたちを制したのは暴力ではなく金と力であった。
資金だけでなく、彼らのレストランなどから多くのヤミ物資がこうしたヤミ市に流れたのも事実である。
詳しくは語れないが、こうした流れは戦犯と呼ばれた日本の黒幕たちが作り上げたシステムでもあった。


理想の歌舞伎町を創ることを目指した鈴木喜兵衛が挫折し、
その後を引き継いだのは喜兵衛の補佐役であった藤森作次郎である。

作次郎はRAA(進駐軍兵士のための慰安施設を設立する国策的施策)の認可を得て芙蓉館というダンスホールを備えた売春旅館で財を成した。
国策という名の利権太り・米軍太りであるという古き住人もいる。
廃業後は和風旅館となりグリーンプラザとなる。
あの歌舞伎町の住人たちの憩いの場のサウナビルである。

鈴木喜兵衛自身も成功時には何台もの高級外車を乗り回し、
派手な遊びをしていたと証言する住人もいる。

先の華僑や侠たちのことを含め、こうした明かされない事実は多い。
表ばかりに陽が当たり、その裏事情は語られない。
それが何なのだ。
その表と裏が歌舞伎町の「真実」なのである。
……隠す必要はない。

歌舞伎町は強烈なバイタリティを持った街だ。
日本、アジア、西洋…様々な国籍の文化が奇妙に交じり合い、
良いものも悪いものも溶け合った街だ。
それはあたかも複雑なパズルのピースのように、
明かせない「真実」までもが見事に妥協し合って形成された街、
凄まじいエネルギーを発散し続けてきた街でもある。
これほど人々を魅了する街はないだろう。
私もそんな歌舞伎町に囚われたひとりだ。
この街を歩くと顔見知りの住人たちから声が懸かることも多い。
いろいろな立場が発する本音も耳にする。

歌舞伎町に暮らす人たち、訪れる人たち、働く人たち、愛する人たち…。
この街の本質と歴史を考えれば、歌舞伎町を語るに身分も職業も国籍も何も関係はない。
こうした街の住人たちや表裏一体のパズルのピースを無視した街づくりが成功した試しはない。

浄化が叫ばれている全国のネオン街の代表としての歌舞伎町を、それぞれが建て前ではなく本音で、真剣に考える時が来たのではないだろうか?
焦土の歌舞伎町に立ち拳を握り締めたであろう、あの日の鈴木喜兵衛のように…。

「喜兵衛プロジェクト」歌舞伎町内の空きビル・空き室物件を、街づくりデザインに合う事業者に貸し支援するという家守事業に、喜兵衛の名前が冠された。

『お客様の気持ちになって商売をする。この道義的商道に基づく繁華街を皆様と共に建設致したいのであります…』

…これは歌舞伎町の建設プランを住人たちに説得して回った時の鈴木喜兵衛の言葉である。

(C)SHINSHUN 

劇画マッドマックス4・22発売号、連載コラム「歌舞伎町の侠」より。
テキストは一部改稿してあります。

※問い合わせへの報告:

この「歌舞伎町の侠(おとこ)」の一部が「夢~歌舞伎町を創った男」の公演パンフレットに使用されております。使用に関して申し込みは李小牧氏を通して受けております。全文使用でないことと改定の承諾もしましたので、署名を控えさせていただくように、こちらで要望した次第です。鈴木喜兵衛を書いた数々の書籍文の中から、愚かな連載での拙文を使っていただいたことを感謝したします。

私が「隠す必要はない」と文中で述べた部分が、案の定、隠されてました…(笑)そりゃ歌舞伎町の光の関係者の手前…隠すわな。私は闇の関係者ですしね。私の記述じゃマズイしょ…と、ホンの少しの気も使いました(笑)

追記:公演初日にお邪魔しました。なかなか面白い芝居でした。
その様子は私と対極におられる歌舞伎町ライター…その光の部分担当の
てらたにこういちさんのブログで詳しく報告されております。いやぁ、何はともあれ、成功!よかったよかった!贔屓目ですが李小牧が一番光っていたような。ただ演技というか素というか…。だって「本人」を演じているんですもんねぇ。

てらたにこういち『歌舞伎町るねっさんす・ブログ』
http://blog.so-net.ne.jp/kabuki-cho/
てらたにさんはブログの中で「まったく新しいお祭りの形」と述べられております。まさにその通りだと共感。歌舞伎町の産業とも言えるエンタメを前面に打ち出したまさに「お祭り」である。皆様の活動、歌舞伎町にあの華やかだった時代の賑わいを取り戻す……。陰ながら(歌舞伎町を書いているとはいえ、本当に『陰』だよなぁ…。迷惑かけているよなぁ…)応援しています!



個人向けメッセージ:
『李ぃ、お祭りが終わったら、早くこちら側に帰って来なさい』神峻  
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