裏の裏は、表…に出せない!
実話誌等で暴走する裏系&馬鹿系ライターが、日本最大の歓楽街・歌舞伎町から発信するグダグダな非日常的体験と裏話。そして禁断の取材メモ!
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極妻という生き方
極妻という生き方は様々である。
侠さながらに武器を振り回し、男達を率いた女性もいる。
巨大な組織の運命を変える選択をせねばならなかった女性もいる。

テレビドラマや映画のような生き方ばかりであろうか?


……私は、ひとりの女性に出会った。
その女性は何ともいえない微笑を湛えていた。


その記事は……、
彼女の人生のホンの上っ面をなぞっただけだ。

ある日、ひとりの女性読者から手紙が届いた。
「ありがとうございます」と締めくくられていた。
ハガキや手紙は、翌日も、その翌日も届いた。
……女性ばかりであった。

これは数年前の記事であるが、
どこをどう探して、見つけたのか、
某テレビ局が「是非とも取り上げたい」と申し出てきた。
イイ男ばかりのあの芸能事務所のタレントが仕切る番組だ。
様々な制約があるために、テレビ用に少々脚色すると言う。


……断った。


記事ではなく、
何だか彼女自身が、穢されるような気がしたからである。


そうしたこともあって、昔の原稿を引っ張り出して読み返してみた。
私の文章は何年経とうと、相変わらず稚拙だ。
……時が経って、
あの頃に分からなかった、手紙をくれた女性たちの気持ちが、
何だかボンヤリと分かるような気がした。


電話してみた。
元気そうな声が返ってきた。



……良かった。




===============



下町のゴッドマザー・戦後~平成と駆け抜けたオンナの侠道

修羅の如く…、菩薩の如く、 

その生き様に『何も悔いはない』
  …極妻、いいえ、ヤクザたちの母親です。





関東任侠界に『お花茶屋の姐さん』という通り名で呼ばれる女性がいる。
山下美智子(仮名)である。

太平洋戦争末期に東京の下町を襲った大空襲、美智子は焼き出された。
母の手に引かれた四歳の少女は炎と煙の中を必死で歩いた。
焦土と変わってゆく街の火を、幼い美智子はその目に焼き付けた。

そんな街もいつしか復興していった。街には惚れた男がいた。
時代を駆け抜けた男は任侠の世界で侠となった。
侠の生き様を縦糸に紡いだその後の美智子の人生は、
あの日、火に包まれた荒川に架かる堀切橋を母に連れられて歩いたように、
ひたすら炎と煙の中を歩む人生であったのかもしれない。





愚連隊の街・堀切


お花茶屋の姐さんと呼ばれる女性がいる。

彼女が生きた堀切とお花茶屋、…東京都葛飾区。
花菖蒲の名所・堀切菖蒲園など風光明媚な環境と下町の人情が溢れる街である。
堀切は開削された溝(堀)に囲まれた街であったための地名、
お花茶屋は八代将軍の徳川吉宗が鷹狩りの際に腹痛を起こし、
お花という茶屋の娘の看病により快気したという出来事が地名となって残っている。
歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」にも描かれている土地である。

この街に、数多くの侠たちを育て上げ、
多くの抗争や事件を見続けてきた極妻がいる。

…しかし、私を迎えてくれたのは、
極妻という言葉からは想像も出来ない
物腰の柔らかい上品な女性だった。
言葉も実に丁寧であった。
地名の由来となった将軍・吉宗を見守ったお花と
ヤクザの親分を支え続けた女性は重なって見えた。
時折見せる笑顔は理想の母親像を思わせる心地よさでもあった。
その驚きを伝えると彼女は微笑んで言った。


『 極妻っていうのは世間の思っているような女ではないんですよ。
…少なくとも私らの頃はね。
男の威勢を借りて威張り散らしたり、
映画のようにマシンガンをぶっ放したりなんて…ねぇ。
そういう人生を選択した覚悟ですか? 
毎日、毎日が勝負、
その都度、腹を括る人生でした。
結婚した相手が愚連隊からヤクザ、
ただ、その男を侠にしたい。
そんな人生だったのかも…。
私は亭主をオヤジと呼んでいました。
一度も名前や甘えた呼び方をしたことなんかありませんよ。
若い衆にも偉そうな言葉は使いませんでした。
敬語とは言いませんが、全てが丁寧な言葉でした。
今は言葉もズバズバとうるさいですよ。
私の持っているものを伝えたいって気持ちですかねぇ 』



南千住で生を受けた山下美智子(仮名)は、終戦の年、四歳だった。
下町を襲った大空襲の中、母の手に引かれて焦土の街を彷徨った。
落ち着いた先が現在の東京都葛飾区堀切であった。
戦後の混乱期にこの街は愚連隊の街と呼ばれた。
町工場の職工や職人たちの街は多くの若き餓えた狼たちで溢れていた。
美智子が惚れた男もそんなひとりだった。


『 早く結婚させて所帯を持たせてっていう時代でしたからねぇ。
十四歳から知っている男でした。
旦那は愚連隊だったから、
結婚したら働いてカタギになってくれるっていう約束で結婚したんですけど…。
昭和三十六年、二十一歳の時でした。
結婚式は盛大にやってもらいました。
その当時では食べるものも食べられないような時代に、
五百人もの人を集めて公会堂でやっていただいたんですけど。
旦那が、愚連隊で、遊び人で、
そんな結婚式をできるなんて、誰しも思わないですよねぇ。
それをやったんです。
結婚したら、約束通りに働いてくれると思っていたから、
今までの愚連隊の付き合いを我慢してたんですけど、
なぜか、若い衆がどんどん増えてっちゃて…。
今度、誰が出てきた、何々のお祝いだって
…これはもうカタギになるどころじゃない。
それに、結婚して一年も経たないうちに亭主が懲役に引かれちゃうんですよ 』




惚れた男は修羅の侠


『 七ヶ月の懲役にいかれたんです。
まぁ、その当時ですから、七ヶ月も痛いですよね。。
…で、私では家賃も払えないし、働いてないし、
仕方なしに実家に帰ってきたわけです。
実家へ帰ってきたんですけど、夜中に若い衆がちょこちょこ来るわけですよ。
私は彼らにとっては母親と一緒ですからね。
ああ、これじゃあ実家に迷惑かけちゃう…。
出て行かなくちゃならないと思い、四畳半の部屋を借りて引っ越しました。
堀切やお花茶屋から若い衆がやってきて、
他にも色々な若い衆のグループが、オヤジ、姐さんと慕ってくるものですから、
留守を預かる私の上には誰もいない、親分とか姐さんとか相談する人がいないでしょう…。
だから、オヤジが懲役に行ってる間は、自分が全部、仕切ることになったんですよ 』


美智子は若者たちの面倒をみることが、亭主の留守を守ることと信じた。



『 シノギはパチンコの景品買いでした。
実家が町工場をしていましたから、
私が働いて実家からお金を貰って米を買ってたんです。
それと若い衆部屋。
私の所に部屋住みは置けないから、
アパート借りてあげて部屋代を支払って…。
若い衆はそこで寝たり起きたり…。
昼番の人もいれば遅番の人も居る。
みんな空いたスペースに交互に寝て…。
食べるもん、着せるもんと、出来るだけの範囲は全てやってきました。
最初に覚悟を訊ねられましたが、毎日がそんなヤクザの女房としての闘い、
その時、その場限りで腹を括っていたってことですね 』


『 そのうちに事業を始めました。
ソープとかサウナの洗濯ですね。…タオル流通業。
問屋を探して業務用タオルっていうのを買って、それをリースしてたんです。
オヤジが懲役に行っている間は、そうやって人が寝てるときでも働いて、お金にして。
それでなんとか帰ってくるまでは頑張ろうと…。
若い衆も私に負担かけるような真似はしないけど、
親の反対を押し切って家を出てきた若者ばかりで、
それなりの生活をさせてやらなければならない…。
私の一言で何でも言うことを聞いてくれるはずですから、
それ以上の事を私がしなきゃいけない。
そんな風なことを繰り返しているうちに、いつの間にか、
行儀見習いで、私に息子を預ける人たちが出てきたんです。
彼らの親御さんたちが朝早くに鶏の卵なんかをどっさり持ってきてくれるんです。
よろしくおねがいしますって。
だから、そういう親との関係で、若い衆になった人間もいますね。
…もう完全にヤクザの母親です 』





修羅の如く、菩薩の如く…



『 私も22歳の時バクチで捕まりました。
お客は商店街の親方連中とか個人タクシーの運転手とかで、
けっこうお金持ってましたからね。
夜中までに帰った人は運が良かったですね。ガサで現行犯です。
「ガサだ!」って来たときに、まだドアにカギがかかってたから、
その間に赤黒の札を私が捨ててね。
バクチは赤黒四十八枚無いと成立しないから、知っててやったわけじゃないけど、
私が赤黒一枚づつ捨てたから起訴に持ち込めないわけですよ。
検事に「明日帰してやるから認めろ」と言われたんですけど、
私が認めなかったもんですから
お客さんもギリギリまで留置されました。粘ったおかげで、賭博開帳ではなく、内々の博打として罰金刑で済みました 』


激しい闘いに巻き込まれることも一度や二度ではなかった。そして、その事後処理も極妻・美智子の仕事であった。



『 お花茶屋は、当時、材木置き場が多かったんです。
その材木の間に日本刀やら拳銃やらを隠して…。
ガサを喰らっても何も出て気はしませんよ(笑)
出入りの時はやっぱりチャカでしたね。
握り飯を作り、サラシの間に新聞紙を挟んで、若い衆に巻いてあげていました。
揉め事だけでなく、他の組がシマ内に挨拶なしで店を出したというだけで、
…徹底的に潰してました。
その代わり、挨拶や仁義を守れば絶対に守ってあげていましたね。
ヤクザの女房としては、若者が何かあって逮捕されても、
裏から手を付けて出してきました。
長い懲役とかそれでつかまって起訴になったっていうのはほとんどありません。
……そっくり出しちゃいます。
私が旦那と姓が違うから出せたんです。
これがオヤジの姓だったら、女房とはいえ関係者でしょう?
相手にしてくれないわけですよ。
自分の本名を使えば可能な抜け道もある。
例えば、接見禁止になれば、結局会えないですよねぇ。
表があれば裏があるはずだ…。それなりの弁護士さんも使いましたけどね。
こういう人間なんですけど、どういう事件で捕まったのか教えて頂きたいっていうと
、事件係が全部教えてくれるんですよ。
被害者の名前も住所も…。
その資料を持って帰ってきて、すぐに被害者に手を打っちゃうんですよ。
そうやって出しちゃうんですよ。
警察も面目があるし、検察もおかしいなぁ?…って。
あとで、あの山下美智子という女はヤクザの女房だって分かった時には終わってましたね。お金かけてでも、弁護士かけてでも、
必ず出しちゃってました。
絶対に懲役は行かせなかったんです。
……これは時効だから話すんですがね 』




姐さんと呼ばれて…


『 オヤジが全国に名前を知られると一家に居ないことも多いんです。
急な義理ごとや、事件が起きたりすると緊急に動かねばならないことも多いでしょ。
そんな時にはオヤジの代わりにうまく立ち回らなければいけない、判断もせねばならない。
でもね、親分の妻、姐さんと呼ばれていても所詮は女なんですよ。
女が男を使うなんて許されないことなんですよ。
それは、オヤジの目の届かないところ、オヤジの代わりに手を添えてやる、
支えてやるということ。
…それだけの人生だったのかもしれませんがね 』



美智子が若い衆に教えたことはただひとつ、
『侠として自信を持たせること』


美智子が好きなのは正直な侠。
…地元の衆に迷惑をかけるな、
身体で護ってやれ。
…喧嘩は売るな、
売られた喧嘩は絶対に負けるな。
……ただそれだけ


稼業入りを望んで、
学校の帰りに毎日毎日、便所掃除に通ってくる少年がいた。
美智子は侠たちの母親、行儀は教えても家事はさせなかった。
掃除、洗濯、炊事、全てを美智子が行なった。
少年とはいえ、男に便所掃除をさせることは美智子の主義に反していた。


美智子が、遠ざけても、遠ざけても、
その少年は若者にしてくれと喰らい付いてきた。
……その少年はのちに大組織の最高幹部となる。


そのかつての少年が美智子に想いを伝えた。
『 俺、姐さんのところに居て良かった。
どこにいっても、おかげで恥をかかない。
…姐さん、ありがとう』


その言葉は美智子を変えた。
私は伝えてゆかなければならないんだ……。





その極妻人生に悔いは無し!


美智子の亭主はとある一家の総長となったが、
その後、ある事件でその地位と盃を返して引退した。
亭主の名前は抹消され、築き上げたものは消え去った。
(それが美智子の名前等を仮名にした理由でもある)

しかし…、それは美智子にとっても同じだったのだろうか?


『 今はオヤジも亡くなって、私はヤクザの世界とは関係がありません。
あたしはココに越してきたっていうのは誰にも連絡してなかったんですよ。
電話番号も全部変えて、連絡つかないようにしたんですよ。
探しようがないんですよ。
ヤクザの世界と縁を切って、私はヤクザの女房で、縁の下の力持ち。
他に何にもないから、一人でひっそりここで余生を送りたいって気持ちで…。
でも、分かる人は分かるって訪ねてきてくれる。
いつでも連絡下さいっていってくれる若い衆もいるし、
母の日にカーネーションとか、私の好きな牡丹をカゴ一杯に持ってきてくれたり…。
でも、今の私は何もしてあげられないから、かえって苦しいんですよ。
そういう風に身体で染まっちゃってるから…。
何か持たして帰してあげたいというか…。
昔だったら、煙草を持たしてあげたりとか、
あの頃は煙草も買えない時代、ハングリーな時代でした。
その頃の若い衆が、今では親分や最高幹部となった侠たちが、
いつの間にか、姐さん姐さんと入れ替わりに訪ねてくれる。
それが私の財産ですね 』


美智子は幼い日々や青春の日々を暮らした土地に、
部屋を借りて、つつましく暮らしている。

ある親分や最高幹部たちの差し向けた若い衆が、
入れ替わりに美智子のもとに通ってくる。
その若者たちと話をし、お茶を飲むのが
毎日の楽しみだという。


『 私はオヤジの人生に何もかも身も心も全て捧げました。
これは恨み言でも悪口でもありません。
本人も言ってましたよ。俺に付くんなら女房に付いた方が侠として得だぞって(笑)
それがオヤジの精一杯の感謝の言葉だったのかなぁ…。
振り返ると色々な出来事ばかりですが、私の人生には何の悔いもありません。
これ以上の望みもありません。
……ただ、ひとつあるとすれば、
長い懲役に行っている若者たちと会いたい。
彼らを笑顔で迎えて一緒に食事をしてやりたい
…それだけですね 』




数々の修羅場と侠たちを見守り続けた極妻という生き様…、
その生き様選んだ美智子は話を終えると満足そうに微笑んだ。
彼女の壮絶な人生は、良き想い出で彩られた満足な人生であった…。
その笑顔は言葉以上にそう語っていた。

美智子の女としての生き方は古い女の生き方かもしれない。
しかし、ヤクザの女房という修羅の人生と、
侠たちの母親という生き様を経てきたからこそ、
今の美智子の慈愛のある菩薩の如き笑顔があるのだろう。




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(C)SHINSHUN
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